
建久三年(1192)源頼朝は鎌倉に幕府を開いて、いわゆる武士による封建制度を始めました。昔の国司・郡司の制はまったく名前だけになり、源義経探索を理由にして設置したといわれる守護・地頭がこれにかわり、国政は大変革をしたのでした。
嵯峨源氏の松浦党もその系統下におかれ、いよいよこれから地盤を固めることになります。松浦党という名称が確実な文書に出てくるのは正治元年(1199)の伊万里文書ですが、吾妻鏡には元暦二年(1185)三月二十四日壇浦合戦の条に出てきます。伊万里市史では平安時代終りごろには使われていたであろうと推定していますが、すでにそのころには「松浦党」が、九州西北海上で一大勢力にまで成長していたことを示すものと思われます。
「いまりの歴史散歩」で古賀稔康氏は
「松浦に住む同族および地区住民が目的を同じくして同一行動を取る、これが松浦一揆ですが、一揆外の人はこれを「松浦の党」とよんでいます。「松浦党」の呼び名は鎌倉時代上期から存在した」といっておられます。市史にあるのと時期が少しくい違いますが、文書に出てくる以前から「松浦党」とよばれていたことは一致します。
其後何事候哉
抑起前国松浦党清披囲知重平
如本可令安堵之由蒙仰賜身假所
令下向候也且官庁御使令下向関東
遂問注候畢其間事定令申
候歟毎事期後信忍々謹言
正治元 十一月二日 遠近守
大蔵次郎殿
(伊万里文書)
松浦党という名称が始めて出ている「知」は大河野遊の子、所領安堵を出したことについての通知
源頼朝が死んで、その子頼家が二代将軍となった正治元年(1199)には、松浦の党・松浦清・峯披・山代囲・大河野知・津吉重平・の同族五人が、打ち連れて鎌倉に参府し、将軍家から改めてそれぞれ、これまでどおりの所領を安心させられています。ともに源太夫直の子ども達とそれにつながる一族ですが、そのうち大河野知は、大河野源四郎遊の子であり、大河野・大河内・鶴田の先祖になります。壇の浦合戦までは大部分が平家に味方していた松浦党としては、一揆して鎌倉幕府に当る必要があったのでしょう。


