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大川町誌年表

Picture of 鶴田 亀童丸
鶴田 亀童丸

西暦 和暦 出来事
鎌倉時代
1281 弘安 四 弘安の役 元軍十四万襲来、松浦党も奮戦、敗走の元兵を鷹島で潰滅させる
1287 弘安一〇 宇野御厨の荘官二十余人、一揆して鎌倉に上り、元寇の役の恩賞を催促する
建武時代
1333 元弘 三 鎌倉幕府滅亡、九州探題に属していた松浦党、筑前少弐方へねがえる
(正慶二)
1335 建武 二 松浦ら九州勢、新田義貞に属して箱根、竹下で戦う
1336 建武 三 多々良浜合戦、松浦党足利尊氏を助ける
南北朝時代
1338 延元 三 松浦党足利方に味方し、筑後の石垣山の菊池武重を攻める。 松浦党の死傷者多く、注進状がある
”  (暦応元)”
1350 正平 五 足利直冬、九州へ下る。 少弐頼尚、これを迎えて勢力を振う
”  (観応元)” 九州では宮方の南朝方(菊池氏ら)・探題方(尊氏、一色ら)・直冬(直義、少弐ら)が三つ巴となって争う
1359 正平一四 筑後川の戦、菊池武光軍と大激戦し、少弐氏に属していた松浦党敗れる
”  (延文四)”
1361 正平一六 懐良親王、少弐氏を討って大宰府に入る。松浦党諸氏、少弐氏に属して宮方の軍と肥前・筑前などに戦う
”  (康安元)”
1362 正平一七 筑前長者ヶ原の戦、 少弐・大友・松浦党、菊池軍に敗れる
”  (貞治元)”
1371 建徳 二 足利義満は今川貞世 (了俊)を九州探題とする
”  (応安四)”
1373 文中 二 今川了俊の弟仲秋は松浦に上陸、松浦党これに属して宮方と戦う
”  (応安六)”
1376 天授 二 伊万里真の領地大河野向村を大河野豊前権守有が横領したので、今川了俊は相知美濃権守と中山備前守に取りしずめるよう命ずる
”  (永和二)”
1384 元中 元 松浦党大一揆(山代・青文書)
”  (至徳元)”
1387 元中 四 松浦党一揆契諾、大河野殿豊前守有の名がある(西松浦郡誌)
”  (至徳四)”
1388 元中 五 下松浦一揆契諾状(青方文書)
”  (嘉慶二)”
室町時代
1392 明徳 三 南北両朝合一。下松浦一揆契諾状、(青方文書)
1421 応永二八 松浦党一揆契諾状、 大川野遠江守繁の名がある。(西松浦郡誌) しかし、その後、大河野氏は断絶したのか史書に出てこない
1467 応仁 元 応仁の乱起る
1469 文明 元 松浦党、東肥前の武士らと少弐氏に属して筑前に戦う
1472 文明 四 波多下野守泰 壱岐を襲い占領する
1475 文明 七 源治、大川野河上大明神 (淀姫神社) 宝殿を再建する。棟札あり
1490 延徳 二 小弐政資、伊万里・山代氏らをくだす
1494 明応 三 小弐政資、上松浦に進入、 波多・鶴田・相知・有浦ら一戦もせずくだる
1497 明応 六 源胤、大河野のことで安堵状を得ている(伊万里文書)
1532 天文年間 鶴田伝、勢いをうる。日在城主大河野氏の後が絶えていたので、昔親類関係にあった鶴田氏から伝の長男鶴田兵部大輔直後因幡守)が後を継ぎ、日在城に移る
1554
1537 天文 六 このころ川原の一若でオランダ窯が焼かれる(肥前陶磁史考)
1544 天文一三 立川の戦、龍造寺盛家父子、大河野日在城を攻撃。城主鶴田因幡守直は、立川に迎え討って大勝する
1557 弘治 三 波多壱岐守盛急死のため、後室は島原城主有馬晴純入道(仙岩)の二男藤童丸を養子とする
1558 永禄 元 大川野宿六地蔵がたてられる
1563 永禄 六 大友宗麟、龍造寺氏討伐のとき、波多氏との仲違いから鶴田氏は龍造寺氏に味方し、有馬軍を多久に攻める
1564 永禄 七 鶴田直、甘言をもって岸岳城に招かれ、途中だまし討ちに合う
安土・桃山時代
1573 天正 元 織田信長、将軍足利義昭を追う、室町幕府滅亡する
龍造寺隆信上松浦に入り、 波多三河守・鶴田越前守をくだす。鶴田勝、仲介に行き、ともに草野氏攻めに参加することで和睦する。
1576 天正 四 鶴田越前守、 波多、伊万里・有田氏に攻められ戦死する (病死説もある)
龍造寺隆信 伊万里に進入し、伊万里・山代・有田氏らをくだす
1577 天正 五 鶴田直、武雄後藤氏に預けられ、鳥海(山内町)へ移る
1580 天正 八 山口館中原の妙香 (鶴田越前守の妻、 山口荘山城主鶴田亀堂丸の娘) 銘の六観音がたてられる
1589 永禄一七 波多三河守親、淀姫神社を修築。佐々木孫右衛門源勝ら熊野神社の本殿をたてる
1592 文禄 元 文禄の役、朝鮮出兵数十五万、予備軍二十万。 波多三河守も出兵し、順天山で苦戦する
1594 文禄 三 波多三河守(親) 豊臣秀吉の命によって筑波へ流される
寺沢志摩守 上松浦地方を領有する(文禄二年説、慶長二年説もある)

1597 慶長 二 慶長の役 志摩守帰陣のおりつれてきた朝鮮人によって、田代村筒江神谷 (かめや) 窯が築かれ、八か年焼かれる
1600 慶長 五 関ヶ原の戦寺沢広高、天草四万石を加増される
江户時代
1603 慶長 八 徳川家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く
1605 慶長一〇 このころ、川原焼山上・中・下窯が築かれる。 大川野梅坂窯も開窯
このころ有田の天狗谷窯で磁器が焼かれる
このころ「慶長肥前国絵図」が作られる
このころ、市内各地に浮立が盛んに興る
1608 慶長一三 唐津城、十年かかって完成する
1614 慶長一九 大坂冬の陣、翌年、同夏の陣で豊臣氏滅亡する
1616 元和 二 このころ、寺沢広高は旧波多・鶴田氏家臣らの旧武士を郷足軽や庄屋に取りたてる (慶長二年説もある)
大川野村(川西村は後独立) 大黒井手がおおかた完成する
元和検地を行う
府招に移って椎峯窯を築く。このころ川原神谷窯も開窯
1620 元和 六 虹の松原に松を植える。伊万里代官西目心遣中野神右衛門、桃川で没(六六歳)
1624 寛永 元 このころ伊万里陶磁器の交易が始まる
1627 寛永 四 寺沢広高隠居、二男兵庫頭堅高家督相続
1628 寛永 五 有田岩谷川内で鍋島藩窯創設
1633 寛永一〇 このころまでに、大黒井手からの通水により峯鶴新田完成。(推定)
1634 寛永一一 寺沢広高死亡(七一歳)
1635 寛永一二 徳川家光鎖国令を出す
1636 寛永一三 このころ十五左衛門、大川野大庄屋の職にある
1637 寛永一四 唐津藩領天草の富岡城は、天草一揆勢に攻められる
1638 寛永一五 島原の乱後、寺沢堅高、天草四万石を減封される
1643 寛永二〇 このころ、有田の酒井田柿右衛門、始めて赤絵磁器を完成する
1644 正保 元 唐津藩と筑前藩は、唐津湾で異国船を焼打ちする
1647 正保 四 寺沢堅高江戸で没す (三九歳) 寺沢氏断絶。堅高は自殺したともいう
遺領八万石は、その後一年六か月天領 (幕府領)となる
1649 慶安 二 大久保加賀守忠職播州明石から唐津へ転封する
慶安のお触書が出る
1656 明暦 二 唐津領郷方人口、五万〇575人
1657 明暦 三 江戸大火(明暦の振りそで火事) 死者十万人、唐津・佐賀藩邸も焼ける
1670 寛文一〇 大久保忠職没し、出羽守忠朝家督相続
1672 寛文一二 戸石川、千部経碑たつ
1674 延宝 二 唐津藩、庄屋の転村制始まる。(佐賀県史)諸国飢饉
1675 延宝 三 鍋島藩窯大川内山に移る(説)
1677 延宝 五 唐津藩主大久保忠朝幕府老中となる
1678 延宝 六 大久保忠朝州(千葉県) 佐倉へ転じ、松平和泉守乗久が佐倉から一万石加増して唐津へ転じる。乗久怡土一万石を上知する
名頭制をしき庄屋の抑制をはかる。諸国飢饉
1686 貞享 三 松平乘久没(五四歳) 松平和泉守乗春遺領七万石のうち六万八千石を継ぐ (怡土郡一万石天領となる)
1690 元禄 三 松平春没(三七歳) 松平和泉守乗邑家督相続
1691 元禄 四 松平志州(三重県) 鳥羽へ転じ、土井周防守利益鳥羽から転封される
1693 元禄 六 松尾芭蕉没す
1696 元禄 九 飢饉(ききん)
1702 元禄一五 赤穂浪士の討入
井手口善徳窯跡上方「鮮人墓」 たつ・このころ善徳窯焼かれる
1703 元禄一六 推峯くずれ落ちつく
1707 宝永 四 推峯から坊主町に移り献上唐津焼かれる
1710 宝永 七 山本常朝「葉がくれ」を著す
1713 正徳 三 土井利益(六四歳) 嫡子利実家督相続
1715 正徳 五 駒鳴熊野神社石燈篭たつ
1717 享保 二 享保の改革
1719 享保 四 峯窯焼口上書(焼物の由来をかく)を提出する
1723 享保 八 姫神社に「誹諧の歌仙」を奉納する
1724 享保 九 駒鳴熊野大権現へ鳥居寄進
1729 享保一四 立川八大龍神龍王祠を建てる(明治十四年再建)
1730 享保一五 川西井手の権現祠を建てる(文政三年再建)
1731 享保一六 いなご害・日でり害のため稲実らず
1732 享保一七 享保の大飢饉、翌十八年春までに佐賀藩の人口の二割を失う。全国的に前代未聞の大飢
死者九十六万九十人(全国人口の約三%)種もみまで食い尽す
1733 享保一八 唐津藩飢饉のため幕府に拝借金を願い出る
1735 享保二〇 享保年中から明和五年まで立川西本谷窯焼かれる
このころ片草・佐次郎窯開窯
このころ北波多村どうめきのたんぼで、農夫が石炭を発見する
1736 元文 元 土井利実没し、利延家督相続
1741 寛保 元 大風雨
1742 寛保 二 大水
1743 寛保 三 虫害のため不作
1744 延享 元 土井利延没し、利里家督相続。
当地方大水、相知の宿は軒端まで浸水、十七軒流失(六月)、大水のため五月にも水死者
1747 延享 四 四、二二、唐津城ができて以来の大水、大川野村だけで十六軒流失
1748 寬延 元 日でり続く
1752 宝暦 二 はしか流行
1756 宝暦 六 風水害や日でり毎年続く、不作
1757 宝暦 七 不作つづく
1759 宝暦 九 淀姫神社神殿銅板葺きとなる
唐津藩内民間学の祖、吉武法命没す (七七歳)
藩主土井利里は、長崎からの帰路、駒鳴村弥次右衛門の母の百歳の長寿を賀し、金子百・米三俵を贈る
1760 宝暦一〇 江戸大火、三日にわたり江戸の三分の一が焼失
1761 宝暦一一 佐賀城下大火、十二町六百軒焼失
巡見使巡視
日でりつづきで雨ごい行われる
1762 宝暦一二 日でりつづき、雨ごい神事行われる。
1763 宝暦一三 土井利里総州古河(茨城県)へ転じ、水野和泉守忠任岡崎から転封になる。怡土三か村・松浦郡十か村天領となる。唐津領内の「隠し田」、一万三千石余に減る。唐津藩庄屋達和多田蓮光寺に集合、代表八名が退職願を出し、打首になろうとする
1765 明和 二 大水
1766 明和 三 大水
1767 明和 四 いなご害
1768 明和 五 日でり続く
立川西本谷窯閉窯
1769 明和 六 大水
1771 明和 八 水野氏、増税を目的に新検地を行う
虹の松原一揆が起る(二万五千人余農民が集る)
1772 安永 元 江戸大火
このころ伊勢おまいり流行、駒鳴松の尾大神宮碑たつ
1775 安永 四 水野忠任隠居、左近将堅忠鼎家督相続
東田代、田代日向守の墓たつ
1776 安永 五 アメリカ独立宣言
1778 安永 七 大風大水で肥前領内三割八分減収
1781 天明 元 伊万里・有田地方日でりつづく
1782 天明 二 不作、天明の飢饉はじまる(天明七年まで)
1783 天明 三 諸国大飢饉、大風二度襲来
1784 天明 四 疫病流行、死者続出。不作のためうえ死多数出る
木崎悠々軒の「肥前国産物図考」に紙すき、石炭採掘場面あり
1787 天明 七 飢饉のため米一升、二百三十文にあがる
孝子善助、唐津藩主水野侯から表彰される
1788 天明 八 巡見使が来る
1789 寛政 元 唐津領郷町人口六万五十人
1793 寛政 五 向平十郎、養父田から川西村庄屋となる
1794 寛政 六 平十郎、大川野大庄屋に転ずる。塾を開いて子弟を教育する
疫病流行
1797 寛政 九 向平十郎、笠椎村に転ずる
大水
1798 寛政一〇 日でり続きで、各地で雨ごいが行われる
新田畑検地
1799 寛政一一 日でりのため大不作
1801 享和 元 天然痘(ほうそう) 流行
田代村「風の神」建つ、駒鳴白木「大神宮」 建っ
1805 文化 ニ 水野忠鼎隠居 和泉守忠光家督相続
無類のひでりつづき。文化年間ごろ、桜井覚兵衛、立川大溜拡張、田代大溜ほか多くの溜池をつくる 田代村「大山祇神」 再建
1812 文化 九 水野忠光隠居 忠邦家督相続
伊能忠敬ら一行、測量調査のため大川野を通り伊万里に至る
1813 文化一〇 小松系譜覚書写し提出(窯焼移動経過を書く)
孝子善助 立川で死亡 (八十六歳)
1815 文化一二 駒鳴熊野神社境内(元弥五郎渕上) 「八大龍王」石祠再建
1817 文化一四 水野忠邦、浜松へ国替えのさい、大川野村など四十三か村一万石を上知する
塩谷大四郎、日田代官となる
1818 文政 元 奥州(福島県)棚倉から小笠原主殿頭長昌唐津藩に転封さる。唐津藩領民、幕府へ上知地の返還を願い出る。 山代郷西分村、三年に立岩・久原、五年浦崎に炭坑開坑
1819 文政 二 塩谷大四郎、松浦郡を巡視する
大川野・川西・川原・山口・田代など十二か村、唐津藩預けとなる
田中定助、塩谷大四郎の近侍となる
塩谷大四郎、日田に陰徳倉をたてる
1820 文政 三 唐津藩、窮乏を救うため、五か年計画で、楮(こうぞ) 千七百五十万本を植えつける
1821 文政 四 唐津藩主小笠原長昌、領民に献金を命じる
塩谷大四郎、民情巡視に来る
このころ立川村穴嶽炭坑から石炭が採掘される
このころ、村々に義倉がたくわえられる
1822 文政 五 コレラ、はじめて流行
1823 文政 六 小笠原長昌没し、壱岐守長泰家督相続
賢勝寺釈徳城、日田咸宜園に入門
大風雨、大水
1825 文政 八 塩谷大四郎、これから年々椎峯焼を注文する
1826 文政 九 唐津藩借財三十三万両。一毛畑を調査し課税する。領内の村々に軒別に杉二十本、桐二本植えさせる
1827 文政一〇 唐津藩、日銭(人頭税)の制をはじめる
大風雨大水
1828 文政一一 今までにない大風、有田は火の海となり、家の倒壊三万三千四百九十二戸、焼家千三百七十三戸・死者八千五百十八人
天然痘流行
塩谷大四郎、孝子善助の話をきき、碑をたてることをすすめる
1829 文政一二 文政年間から弘化年間ごろまで、善徳窯が焼かれる
1830 天保 元 井手口の島、旧「天満宮」石祠たつ
冷気、 いなご発生(野田日記)
天領、立川・駒鳴など十七か村及び長崎奉行所預けになっていた平原などみな唐津藩預けとなる
水害、虫害(野田日記)
1832 天保 三 天保大飢饉(天保三457年にかけての飢饉)
1833 天保 四 小笠原長泰隠居、壱岐守長会家督相続
大水、虫害、日でりの害(野田日記)
1834 天保 五 水野忠邦、老中となる
大水、日でり、虫害(野田日記)
1835 天保 六 暴風雨(野田日記)
塩谷大四郎、江戸に呼び寄せられる
1836 天保 七 塩谷大四郎没
小笠原長会没、佐渡守長和家督相続
大雨、虫害(野田日記)
姫神社境内に「芭蕉句碑」たっ
1837 天保 八 虫害、今までにない不作(野田日記)
大塩平八郎の乱
1838 天保 九 天領百姓一揆のけはい、西国巡見使巡視
田代大助など小倉で訴状提出、平山下村の五社権現で、郡中寄り
六月、九月、佐賀藩に強訴、厳木金毘羅にこもる
1839 天保一〇 天領一揆鎮圧さる
1840 天保一一 十一月十三日、長崎奉行所で天領一揆判決言い渡される
小笠原長和没し、佐渡守長国家督相続
1841 天保一二 大水
1842 天保一三 天領四十三か村、念願かない日田代官直轄となる
1843 天保一四 松浦郡庄屋惣代が御初穂を日田の神社に納める
天保年間、城野の久保儀左衛門窯 穴嶽炭坑の石炭で焼物を焼かせる
1845 弘化 二 水野忠邦 天保の改革に失敗する
1846 弘化 三 このころまで、 井手口の善徳窯が焼かれる
1847 弘化 四 佐賀地方に天然痘流行
1848 嘉永 元 唐津領内に天然痘流行
1849 嘉永 二 日田郡代明府池田公に再奏、 孝子善助の碑建立。 佐賀藩種痘実施
1850 嘉永 三 大暴風雨
1853 嘉永 六 大かんばつ、特に大川野・川原 駒鳴がひどい(鶴田氏文書)
小笠原長行(初代長昌の実子)長国の世子となる
日米和親条約を結ぶ
1858 安政 五 唐津領内にコレラ大流行
小笠原長行養父長国に代って、藩政をとる
1861 文久 元 天領全体長崎代官所移管。 小笠原長行、大川野を通り長崎巡視・参勤交代に向う
1862 文久 二 天領日田代官所支配にもどる。
小笠原長行、老中格となる
1863 文久 三 小笠原長行 生麦事件解決のため大英断を行い、老中格を退けられる
1864 元治 元 長州征伐(唐津藩士約二千名参加)
1866 慶応 二 小笠原長行、征長全権となる
山口・田代・川原村は長崎代官所、大川野・川西・駒鳴・立川村は島原藩支配となる
1867 慶応 三 一〇月大政奉還。一二日王政復古の大号令
明治時代
1868 明治 元 正月、鳥羽伏見の戦、大川野役所の島原藩役人を追い出し、薩摩藩が占領
二月、長崎鎮撫総督管下、再び島原藩預け
一月、長崎府大川野役所設置
1869 明治 二 六月、長崎府、長崎県と改称
1870 明治 三 四月、厳原藩へ移管(大川野・立川・駒鳴川西) 他は長崎県に残る
1871 明治 四 七月、厳原県(山口・川原・田代) 長崎県(大川野・立川・駒鳴・川西)
九月四日、伊万里県、 厳原県と合併
1872 明治 五 一月、長崎県から山口・川原田代合併伊万里県となる。庄屋廃止、戸長・副戸長を置く。
同月県庁佐賀移転、佐賀県となる。六月、草場船山を招き本立堂開講、八月、学制発布
1873 明治 六 第二六大区七番中学区一小区(立川・田代) 二小区(上記以外)
1874 明治 七 佐賀の乱
1875 明治 八 四月、小学校令により、賢勝寺を仮校舎として大川野小学校を開設。九月、眉山小学校
開校(天神社拝殿をもって仮開校)
1876 明治 九 四月、佐賀県廃止、三潴県、八月から長崎県に所属戸石川旗寄せ杉山から勧請。
1877 明治一〇 鹿児島暴動非常手当人馬割。 四月、予備小銃借上大川野八名
1878 明治一一 五月一五日「庄屋地一件落着(御請書、大川野村惣連印)
1879 明治一二 コレラ大流行
1880 明治一三 腰岳騒動 駒鳴小学校設立
1881 明治一四 田代学校・立川学校設立
1882 明治一五 伊万里銀行設立。 校名変更、中等大川野小学校
1883 明治一六 佐賀県に所属。本立小学校(大川野町山)新築。駒鳴・立川学校を井手口眉山小学校に合併1886
1889 明治二二 四月、大川村(市町村制施行)。高等尋常本立小学校改称。 九月二五日新築開校式。
村長麻生文七郎五月~二五年四月
1892 明治二五 村長黒岩誠七郎七月~二九年六月。田代政平頌徳碑建立
1894 明治二七 眉山校と合併東田代に乾尋常小学 設立。六月廃校、本校に合併。日清役始まる
1896 明治二九 村長木下政治七月三四年六月
1901 明治三四 村長黒岩城七郎七月140年三月
1902 明治三五 大川尋常高等小学校、校名変更、校舎増築、開校式挙行
1904 明治三七 日露役始まる
1907 明治四〇 二月、大川梨栽培始まる。村長麻生文七郎四月大正四年四月
1908 明治四一 神寄せ 大川村信用購買販売組合設立
1911 明治四四 明治末ごろから東田代、筒江で「みかん」 栽培始まる
大正時代
1914 大正 三 小学校を天神山に新築、乾尋常校合併。ドイツ宣戦布告(第一次世界大戦)
1915 大正 四 村長堀田政太郎四月十八年四月。大川郷土誌御大典記念発刊。五月鍋ヶ倉溜、強雨破堤
1916 大正 五 鍋ヶ倉大改築
1919 大正 八 村長田中彦造四月—一三年一〇月。農業補習学校設立、小学校に併設。北九州鉄道会社
創設、堀田政太郎重役 社長代理
1921 大正一〇 中尾儀三治の墓、川西上六十戸寄付で建立。融和団体「片竹民風会」設立
1922 大正一一 八月一四日電灯ともる。
1925 大正一四 伊万里自動車株式会社設立 昭和八年西部バス、同一四年西肥バスに合併)村長堀田
政太郎一月115年七月
昭和時代
1926 昭和 元 村長藤松雄太郎七月一昭和三年一月
青年訓練所充当公民学校
1928 昭和 三 村長井手岩蔵一月一七年一月
1929 昭和 四 白木橋架橋記念碑建立
1931 昭和 六 このころから戸石川に「ぶどう」 栽培始まる。 小学校に学校看護婦をおく
1932 昭和 七 村長堀田政太郎四月一〇年六月
1933 昭和 八 電話架設。片竹民風会予算五二円会員一四
山本・伊万里間鉄道延長着工
1935 昭和一〇 北九州鉄道開通、駒鳴・大川野・肥前長野駅設置。 補習学校を青年学校と改名
1936 昭和一一 村長大久保藤太七月一八年七月
堀田政太郎翁功労碑建立
1937 昭和一二 日華事変始まる。立川鉱業所創業(一二月二六日)
1938 昭和一三 北九州鉄道 国鉄筑肥線となる。三月、立川炭坑着炭。一二月、堀田政太郎没七六才
1939 昭和一四 第二次世界大戦始まる。田代山祇神社絵馬堂焼失
1941 昭和一六 日ソ中立条約成立。 太平洋戦争起る。国民学校令実施。 大川村国民学校と改称
1943 昭和一八 二宮尊徳銅像戦時需要品材料として応召。 村長池田忠吉七月十二年一一月
1945 昭和二〇 八月一五日、太平洋戦争終わる。 農地改革始まる。 小学校創立二〇周年記念事業(立川分校・山口植林・東麓園開墾)
1946 昭和二一 村長鶴田満一二月二二年四月。
1947 昭和二二 “公選村長久保宝蔵四月十二六年四月。五月、大川村立大川中学校開校式、入学式 (小学 校に併設)。九月、PTA結成。学童給食開始。 大川公民館設置”
1948 昭和二三 九月一日夜大洪水。 大川農協設立。 大久保藤太先生碑建立
1949 昭和二四 天皇陛下御巡幸
1950 昭和二五 大川中学校新校舎落成。眉山溜池記念碑建立
1951 昭和二六 独立公民館落成(中学校講堂兼) 東田代分校開設。村長古藤勝太四月十二九年三月。
1953 昭和二八 立川分校新校舎落成
1954 昭和二九 四月一日、伊万里市制施行 伊万里市大川町となる
1958 昭和三三 一一月一日、蒸気機関車からディーゼル汽動車に変わる
1959 昭和三四 大川公民館体育部の活躍が認められ、文部省の表彰を受ける。
1960 昭和三五 国勢調査 大川町人口七、771人
1961 昭和三六 天皇・皇后両陛下行幸啓。
1962 昭和三七 東田代分校閉校。筒江までバス開通(四月九日)
1964 昭和三九 東京で第一八回オリンピック大会開催
1967 昭和四二 伊万里市大水害。講堂解体。 小学校体育館落成
1968 昭和四三 台風一六号、立川分校竜巻大被害。 農協電話開設
1969 昭和四四 立川分校廃校(本校合併)、旧校舎解体
1970 昭和四五 大日鉱業立川鉱業所閉山。四月一日、東田代までバス延長
1971 昭和四六 大川小学校創立百周年記念事業、(プール新設・郷土資料館設置)
1973 昭和四八 農業構造改善事業始まる
1974 昭和四九 老人憩いの家「日荘」落成
1976 昭和五一 一一月三〇日、駒鳴までバス開通
1977 昭和五二 ダイヤル式電話開通。 土地改良記念碑建立 (大川農協)
コミュニティセンター完成

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