鶴田 重右エ門
應永二年(1395年)源太夫久から十五代目波多三河守好久の支城鶴田亀童丸の末孫大坪重右エ門を以て當家の先祖とす。重右エ門の父を平兵衛と云い妻コト夫婦の中に二男あり長男を重右エ門、二男を一郎と云う。重右エ門分家し性を大坪と […]
伊萬里
伊萬里灣 西松浦郡の伊萬里沿岸は、九州西北部の一端にて、古代大陸民族の渡せし、土地なることは、其地理的にも考察さるゝところである今遺跡として東山代村の日尾崎と、西山代村の波瀬の小島には、高句麗式の横穴古墳があり、そして日 […]
御本陣來泊
藩主松浦凞は、或年唐津獅子ヶ城(厳木村)なる、祖先峯氏の墓参の歸途、正月の十四日橫石嘉助宅へ一泊し、翌十五日は三河内の今村槌太郎宅へ一泊せし記録がある。次には明治十四年十一月舊藩主松浦厚は、舎弟靖を同道して横石鹿吉宅へ […]
鵜殿石仏群
佐賀県史跡 鵜殿石仏群鵜殿石仏群については、次のような伝承があります。大同元年(806)、空海(弘法大師)が唐(当時の中国)より仏教修行をし、遣唐使と共に帰国した際にこの地に立ち寄り、釈迦如来・阿弥陀如来・観世音菩薩の三 […]
平戸松浦氏
平戸松浦氏は、又唐津の波多氏、有田の有田氏、伊萬里の伊萬里氏等と同じ松浦氏の分系である。源太夫判官久の孫披、始め上松浦川西の峰邑に在りて峰五郎と稱せしが、治承元年(1177年)巖谷(東松浦郡嚴木村)に轉じ獅子ヶ城を築き […]
田代の筒江
一時藩窯なりし大川村の田代焼さ稱するは、今の東田代部の筒江(田代より七八丁手前にて大川野より半里餘戸數三十戶)にて製造されしものにて、此處は元波多の家臣田代大炊助保(鶴田氏傍系筒江の舘に住す、五百石)の采邑である。古窯 […]
久 松浦源太夫 宇野御厨野檢校
秦 久茂 人皇三十八代天智天皇の朝に於いて秦久茂都より下りて外寇に對する警備の任に就きしより、子孫代々上松浦を領有すること四百餘年であった。而して此處の鬼子嶽(今の北波多村岸岳)山麓に舘を設けて支配せしより、此地方をさ稱 […]
大河野・鶴田・波多・伊万里氏関係系図
久 松浦源太夫 宇野御厨野檢校押直 源四郎太夫 宇野御執行持 波多源太夫 波多源次郎勝 石志源三郎聞 新久田四郎広 神田五郎調 佐志六郎高俊 车田部七郎清 松浦源二郎 丹後・志佐・斑島等の祖栄 有田源三郎 有田氏の祖遊 […]
大川町誌年表
西暦 和暦 出来事鎌倉時代1281 弘安 四 弘安の役 元軍十四万襲来、松浦党も奮戦、敗走の元兵を鷹島で潰滅させる1287 弘安一〇 宇野御厨の荘官二十余人、一揆して鎌倉に上り、元寇の役の恩賞を催促する建武時代1333 […]
大坪(鶴田)重右エ門
源大夫久から十五代目波多三河守好久の支城鶴田亀童丸の末孫大坪重右エ門を以て當家の先祖とす。重右エ門の父を平兵衛と云う。妻コト夫婦の中に二男あり長男を重右エ門、次男を一郎と云う。重右エ門分家して姓を大坪と称し大川野宿より […]