應永二年(1395年)源太夫久から十五代目波多三河守好久の支城鶴田亀童丸の末孫大坪重右エ門を以て當家の先祖とす。重右エ門の父を平兵衛と云い妻コト夫婦の中に二男あり長男を重右エ門、二男を一郎と云う。
重右エ門分家し性を大坪と稱し大川野宿より妻をめとりシカと云う。
重右エ門性直實にして山口村惣代たる二十有余年の久しきに至り一子も得ず、本家一郎に三男二女あり長男彦四郎を相続人とし次男幸平を分家し三男新五郎を以て重右エ門の養子に貰受相続す。
重右エ門八十八才の時、高齢を以て長崎縣褒毎金二人扶持宛下賜り九十二才にして没す。
新五郎の妻に田代村高取常エ門四女を貰受、一子を設け稚名を市太郎とよぶ。
明治二年性を再び鶴田と改め市太郎を源吾と改名す。妻を相知村岩部円平二女を貰受三男二女あり。長男五才にして没し二男を以て相続す。
鶴田菊治