唐津藩の中の大川

慶長三年(1598)に、豊臣秀吉が死んで、わずか二年たったばかりの慶長五年には、関ケ原の合戦で天下の支配権は徳川家康の手に移りました。やがて、同八年(1603)には、征夷大将軍に任ぜられ、幕府を江戸に開いて、元和元年(1615)秀吉の遺児秀頼を大阪城に滅ぼし、完全に兵馬の権を握りました。それから二百六十余年天下万民ことごとく徳川の威光になびき、太平を賛美する、いわゆる後期封建時代が続きます。三河守の流配前に、その支配下にあった上松浦一帯は、秀吉の愛臣寺沢志摩守広高の所領となっていました。広高は松浦郡六万三千石、薩摩(鹿児島県)出水郡二万石(後からは筑前(福岡県)怡土郡と交換した。)さらに慶長五年(1600)、関ケ原の戦の論功行賞によって天草四万石を合わせて、十二万三千石の大名にのし上ったのです。
やがて慶長七年から十三年にかけて唐津湾岸満島山に唐津城(舞鶴城)を築き、武士の城下居住や刀狩りによって兵農分離をはかり、これと並行して各地に郷土的勢力を保っていた波多・鶴田・草野氏の旧臣達を武士や庄屋、または郷足軽としてとりたてるという巧妙な融和政策をとりました。一方、慶長十年ごろから始めた検地を徹底的に実施し、元和二年(1616)にこれを完成しています。いわゆるこの「元和検地」は、その後、明治の初めまで土地所有権の基礎となりました。

こうして、武士と農民の分離がはかられたのですが、武士が農民を支配するため都合がよいように、士(武士)・農(百姓)・工(職人)・商(商人)、(工、商の人たちを町人とよんだ)の間には、はっきり上下の差別がさだめられ、後にはなおその下に賤民(えた、ひにん)というきびしい身分制度がつくりれていきました。特にいやしい身分とされた人々は、居住地は荒地や町はずれに決められ、職業は皮革その他一定のものに制限されました。死牛馬の処理をさせられ、役人の手先となることもありました。これが今日まで残されている被差別部落、または未解放部落といわれるものの起源です。農民や町人にこれをさげすませることによって、自らの貧しい生活の苦しみや武士の支配への不満をそらせたのでした。
そのころの大川での様子を明記したものがなくはっきりしませんが、当地域での起源は、日在城主の「えとり」(たか狩のたかの餌とり)が当時谷間になっていた現在の片竹(かたたけといった)に住みついたのに始まる、という言い伝えがあります。この差別政策は、徳川の中期以後、農民の不満が高まるにつれてきびしくなりました。
古老の瀧本定味氏が、「安永年間(1772~1780)身分をかくして旗本となった鈴木藤吉郎の身元が発覚し、その流れが当地に来た。」という古文書を見たと言われますが、現物のゆくえがわからず確認できません。
文政年間(1818~1829)大川野片竹では、鎌作り、履物作りが主で、農業をやる人も少しあり、番所の下役にも出たといわれています。役人といえば、長老の藤本兼雄氏の幼時(大正のころまで)捕り手の役人が使う「十手」が二個あったということです。一方ではさげすませながら、他方では、下役人をさせて恐れさせ、いやがられるようにしていたことがこれでもわかります。

大黒井手

大川野村川西、大黒井手の構築は、松浦昔鑑によると、「志摩守が慶長年中佐賀藩主と江戸城内で談会し、なお、十五左衛門を使者としてつかわして、その了解のもとに着手した。」とあります。
また、松浦要略記によると、「大黒井手と久里川筋の堤防は家老原田伊豫の縄張りで、隔日に両方の現場に出張して工事を督励し、元和二年に一応完成したので、領内の検地を行った。」と記されています。
原典が不明ですが「西松浦郡誌」には、文禄四年(1595)に着工して四十年あまりをついやし、寛永十年に完成したとあって、昭和十五年十月、大黒井手の堤上に建立された「寺沢志摩守碑」にはこのことが刻まれております。また、その碑から二、三〇m川上にある石垣の巨石に
寛政九年巳十月 立役宮
立合大
と刻んであります。その下の方には、修築した時の役人名が記された石があったはずですが、そのあとなんども築きなおされたのでしょうか、今ではわからなくなっています。
またこの井手の底には志摩守の命によって、石刻の大黒天が安置してあり、それで、この井手の呼び名がある、と言い伝えられていますが、これを裏づける確実な資料は見当りません。

川幅一〇〇m以上、高さ五mぐらいもある井手せきのめの工事は、なかなか大変な難工事で、石垣の銘でもわかるように、起工してからなんども決壊されてはやりなおしています。村々から数千人の夫役(公用のために使う強制)が出され、長い年月かかっていますが、その時期や期間は諸書によって相違があります。
その起工はやはり志摩守の着任当時からで、その間に、鍋島藩との交渉があって、川原と桃川藩境の変更などの問題もあり、井手の位置の移動やなんどかの失敗が繰り返されたのではないでしょうか。そして松浦要略記にあるように、元和検地以前にいちおう完成したものと思われます。慶長年間検地の結果作製されたといわれる慶長絵図には、大川野村(大川町全部)石高二四三六石二斗六升となっていて、元和検地の結果新田開発分を示している「寛永七年十一月松浦郡怡土郡割符村付之帳」(伊万里市史による)。

田代可休と大黒井手

大黒井手の構築については次のような伝説があります。
田代可休は志摩守が大黒井手を築いたとき、たびたび水害で破壊されて困っているのを見て、川の中に中島を作って水流を二分し、一方に導水口を設けると大水の害を避けることができると教えました。志摩守は大名に対してさしでがましく命令するのはけしからぬ、と可休を捕えて死刑にしましたが、可休のいうとおり工事を進めたところ、見事に成就することができました。村人は可休の徳をしのんで、ほこらを立てて祭ることにしたいということです。
松浦拾風土記によれば
「元建福寺は日在城の祈禱所であった。日在城落城後自然にくずれ、その後田代可休というものの住家となったが、可休は無実の罪で長野原で処刑された。」とあります。
松浦昔鑑には
「熊谷山載蓮寺は日在城主鶴田因幡守の祈禱所であったが、年がたって田代下総入道可休という山伏がここに居住した。すなわち山伏給人でこの地方百石ほど作り取り、郷中あたりを支配していたところが、不慮の無実の罪を身に受け、日在城に生捕られ、おいの藤吉郎とともにおたかわら(尾坂の原)で三本竹の刑に掛けられた。」とあります。
これから見れば載蓮寺と建福寺が混同されているようですが、あるいは可休が二か寺を兼務していたのでしょうか。松浦要略記などにもごく簡単に、無実の罪で斬首の極刑に処せられたとあり、どれにもその理由が明記してありません。
なお松浦拾風土記「波多三河守落去始終の事」の記事には、三河守家臣たちが、主家再興旗上げのために、日在の祈禱所建福寺を会合所として、たびたび会合し、謀議を重ねたとあります。もしそれが事実であれば可休もなんらかの役割りを果たしていたはずです。
田代可休については、その墓所であり、その子孫といわれる立川居住田代弥太郎氏の壇家寺大川野の本覚寺のさきの住職向仙峰師が、「田代可休顕彰事蹟考」で詳しく研究しておられます。
また可休の系図が相知町田代文治郎氏所蔵年代記にあり、それによると

「嵯峨源氏の子孫で田代日向守保、大川野村田代岳に居住、可休は七十七代、慶長の産、その子久次兵衛尉、同二西寺沢侯当国を領し給うみざり民間に下る」
ということですが、立川田代氏の祖先はその弟、つまり可休の次男久右衛門で、見事な位はいが現存し、墓石も立川の伊勢講碑付近の墓地にあるということです。
田代可休の子孫で、代々庄屋をしていたという唐津市石志の田代頼治家の伝によると、
「可休は、田代市左衛門尉源元の子で、天正十五年正月十八日に生まれ、元和三年三月八日に家督をつぐ。幼名は小二郎、字は田代市左衛門、名は往、姓は源、よって源往という」
と、記されています。
下総入道可休と号して建福寺に住んでいたことは一致し、才智衆にすぐれ、剛毅で信念強く、所信断行の人で村人から親しみ尊敬されていたもののようであります。
なお、向氏の事蹟考には可休と十五左衛門との混同が指摘してあります。十五左衛門は諸書にはっきりと片目であったとありますが、大川野方面での言い伝えでは可休も片目であったということです。また松浦拾風土記に出てくる十五左衛門飲みとりの大平皿や、馬上御免のくつわとよろいは、(可休の子孫といわれる)田代頼治氏の宅に保存されていて、そのうち大皿は、田代氏の娘が名古屋青木家に嫁入りのとき、引出物として持参され、今は青山家に保存されているとのことです。
石志の田代家も、大川野から板木組に移って現在石志にいるが、代々庄屋で可休の子孫だということです。しかも、田代家紋は松浦源氏一族の「三つ星に一」だとか、話はますますこんがらがってきます。
それから、井手保氏の「唐津城寺沢御代記」大黒井堰の由来のなかには、吉村茂三郎著「史話松浦潟」によるとして
「重臣原田伊豫守が自分の面目をつぶされた恨みをはらすため、広高が大坂夏の陣に出陣して不在ののをさいわいに、建福寺に行き、吉祥天参拝と称して木像をとりあげ、当代禁令できびしい聖母マリアの画軸をしこんで、可休に無実の罪をきせ殺害させた。」
とあります。
本覚寺の墓碑には、「即夢一心居士」元禄八乙亥天九月一日田代氏中立之、俗名田代下総入道可休と刻まれています。故向仙峯氏はこの戒名を問題としておられます。これは俗人の戒名だというのです。在俗の人であるならば何々院、または何々法師、阿闍梨などとあるべきはずだといっておられます。また、源氏であるはずのが平氏とあるのもおかしいようです。そういえば、松浦古事記波多三河守の家臣の条の田代日向守も、平林一、田代亀井館三百石、とあります。向氏の説では、可休に三子あり(現代ならばともかく)地方百石作取りで郷中支配という豪勢さから察すると、載蓮寺や建福寺などに住む身となった可休は、在俗ではちょっとぐあいが悪いから僧形になり、真言宗だから修験者となっていたのであろう。そして主家没落の恨みを忘れることができず、建福寺での謀議参加の可能性もあったと推察されています。
諸説が多く、どれが正しいかわかりませんが、田代可休は理由がはっきりされないで、無実の罪に落され、死刑にされたということです。そして村民が大黒井手構築の恩人とたたえて、三百年のこのかたあめつづけていることだけは否定することができません。
松浦川の流れを満々とたたえる大黒井手を見下す長野の丘は、可休処刑の地と伝えられ「奉嘉宗大権現」寛政四年子年建立とある石碑は、村人がその霊を祭ったものといいます。
また、大川郷土誌には、秋葉山の上に今は大風で倒れてないが、四かかえもある松の大木があり、その根元に可休の首が埋めてあるということで、長い間村人の参拝がたえなかったそうです。
昭和十五年十月には、恩恵を受けている有志の人達が思いを新たにして、志摩守と可休の碑を大黒井手の堤上に立て、不朽の偉業をたたえ、その霊を祭ったのももっともなことであります。

大河野郷足軽

寺沢志摩守広高は、天性理財に長じ、とくに土木に通じていました。なかでも大黒井手の構築、松浦川の改修による川西・峯鶴開発や、立川大溜築堤による白木鶴の新田開発などは、代表的な大事業で、今日もなお郷土開発の恩人としてあがめられています。
悲惨な滅びかたをした波多家の旧臣たちの恨みは、当然広高に向けられたでしょうから、その対策にはずいぶん苦労したようです。そして取られた一つが郷足軽ですが、始めは大川野組三〇人で、給田として五反(約五〇a)を支給され、長崎・佐賀領口を守らせました。川原の番所にも配置されています。
また、小頭二人、大浦清助・中島儀左衛門に十五人ずつが預けられ、両人は御朱印をもらいました。その後、大坂御普請のとき組子が連れて行かれて小頭がいなくなったので、草場治左衛門が仮小頭を仰せつけられ、それから小頭は三人になったけれども、治左衛門の方は御朱印をもらっていません。
その後、小麦原・畑津・中島などの藩境を守らせ、なおまた鏡・和多田などの往還筋や唐津城下まで守らせました。初めは無役だったが、兵庫頭没後天領になってからは、山回りを勤めさせられています。
この郷足軽は、佐賀県史には
大川野村 四八人 厳木鉄砲村 一〇人 鏡 村 四〇人 和多田村 四〇人
小麦原村 二〇人 波多津村 一四人 中原村 七人 怡土郡内 二一人
計 二〇〇人となっています。

なお、天保十三年郷足軽由緒書には、大川野村郷足軽杉本右衛門や、川原村境番人徳田助平の先祖は、ともに波多三河守家来浪人の由、としてあり、杉本氏は元和二年寺沢志摩守に召しかかえられています。
郷足軽は一人当り五反(50アール)ずつの、しかも年貢米免除の土地を与えられて、郷土取り扱いを受け、平時は農業を行いながら落境そのほか命じられた物見警戒などに当り、非常の際は軍役に従うことになっていました。この郷足軽の制は藩主の転封には関係なく、その土地に土着して、代々世襲され、明治維新まで続けられました。

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