
朝鮮の役で名護屋付近に集結した軍船およそ四万そう、出征兵士は陸海合わせて二十万五千余、予備軍その他駐留軍はおよそ十万三千、合計三十万八千あまりということでずから、その規模の大きさは、ちょっと想像できません。
名護屋城やこれだけの軍勢の陣屋を急造するために、近隣の神社仏閣の建物が動員されたということですが、そして山代の山寺総持寺さえ解体されたと伝えられますので、おそらく当地方の寺院もそうではないかと思われます。
しかし、朝鮮の役に関連して当地方で起こった最大の出来事は、なんといっても波多氏の滅亡ということです。戦国ならいとはいえ、上松浦ただひとつの戦国の生き残りであった波多氏が秀吉のために無理やりに滅ぼされてしまったことは、まことに衝撃的なできごとでした。旧唐津藩の全域にわたって今でも「三河守」や「岸岳末孫」の「たたり」が問題にされるのは、その最後があまりにも悲惨であったからなのでしょう。
波多三河守は文禄の役には兵二千を率い、鍋島直茂の配下に属して出陣しました。波多氏の重臣黒川源八郎の手記によれば、
「順天山(全羅南道)に攻入って大いに戦い武勲をあらわしたが、文禄三年甲午(1594)二月九日帰国すると、意外にも海上で豊臣秀吉の命により上陸を禁止され、そのまま徳川家康に預けられ、常州(群馬県)筑波山のふもとに流された」
としてあります。伝説によれば、江里長門守、飯田彦四郎が常州へ迎えにいって連れ帰り、波多氏の再興をはかったということですが、どうもこれは疑わしいようです。肥前町入野にある供養碑は慶長二年(1597)丁酉霜月吉日とあり、それ以前に配所で死亡したのではないでしょうか。
松浦古事記によれば、遺臣たちが多く追腹(殉死)していて辞世の歌が記されていますが、徳居村(北波多村徳須恵)瑞岩寺の境内「旗本百人腹切場所」にその墓といわれる宝篋印塔がたくさん並んでいます。辞世のなかでその姓名から大川地区ではないかと思われるのを二つあげます。
もぢゃくちゃと死後を争ふ愚さよ、
もぢゃつかぬ身の同じ蓮に
千山道度居士
峯丹後守道度
夜叉らせつ名古屋の城に住ならば
子孫は絶えてたいこうもなし
香昌一保居士
川原勘四郎一保
「肥前松浦鑑」には波多氏一族の名前が列記されていて、町内の伝説や遺跡と関係があるのが少なくありません。一部には「松浦古事記」の名前と違っているのもありますが、今後の研究資料のためにあげてみます。
波多家一族館付之事(小活字は松浦古事記)
鶴田越前守光稠 岩屋村獅子ケ城二住ス 五百石
鶴田因幡守光本 大川野村日在之城二住ス 五百石
峯 丹後守平宣 川西下郷岸二住ス 三百石
田代日向守平林一 田代村亀井之館二住ス 三百石
侍大将
佐々木近江守 竹有村之館二住ス(松浦要略記には、稗田村居住、近江国日野の産、日野氏とす。佐々木の余流なる由とある)
旗 本
峯 丹後後五郎八平通方 川西村下峯二 百五十石
南 源三郎菅原保道 大川野村二 四百石
川原勘四郎平道秀 川原村二 三百石
渕田勘四郎橘秀里 立川村二(赤木治部太夫川原村 赤木治部太夫輔假屋村) 三百石
原 善次郎秦源佐 大川野村二(田代村之内筒井館) 三百石
田代大炊之介藤原如保 田代村筒江 五百石
このほかに、田中芳太著の大川郷土誌には「鶴田亀童丸山口村」とあります。厳木町史に引用された小城鶴田家文書によれば、亀童丸は山口村荘山城主でその娘妙香は、獅子ケ城主鶴田越前守の妻であり賢の母になっています。山口館中原には天正八年紀年銘の七観音塔がありますが、「梅林院妙香」の逆修碑で、有銘七観音塔としては今のところ市内唯一のもので貴重な文化財とされています。亀童丸は鶴田姓を名乗ることから当然鶴田一族とみるべきでしょうが、出典不明でさきの鶴田家系図にも見当らず他の文献記録にもまだ発見されていません。文政二年山口村明細帳には「古城あり善助居城す」とあります。善助と言えば、さきの系図に鶴田直や前の弟として「山口善助」がありますが、あるいは亀童丸のあと山口を姓として荘山城主となったのかも知れません。前記館中原には「亀童丸の墓」と伝えられる五輪塔があります。また付近の一ノ谷には古い石塔が山積みして祭られていますが、みんなこのころのつわものどもの夢のあとなのです。

