
天文十六年(1547)岸岳城主波多壱岐守盛が急死したので、その世継ぎ問題からお家騒動が起りました。その後のつぎについて、鶴田因幡守直・弟越前守前・日高大和守資・相知掃部助・青山采女正など、波多氏の近親者や重臣どもは壱岐守盛の弟、志摩守の子である隆・重・正の三人のうちから立てようとしたのに対し、壱岐守盛の後室は強引においの藤童丸(島原城主有馬修理大夫仙岩の二男)を養子に迎えました。盛没後十年ばかりたった弘治三年(1557)のことです。この藤童丸が、最後の岸岳城主波多下野守鎮(後の三河守親)になります。
盛の後室は、鶴田氏に加担して反対派をおだてている主謀者は唐房村日高城主(上松浦・壱岐に勢力をもっている)日高大和守資と思いこみ、城中の宴会に事よせて招き入れ、毒殺してしまいました。これから大和守の子甲斐守喜は、後室を父のあだと恨んで、報復の機会をうかがうようになりました。
永禄六年(1563)二月、豊後の大友宗麟は少弐家再興を名分にして、佐賀の龍造寺討伐のため波多・多久・後藤(武雄)・平井(藤津)・伊万里・有馬(島原)氏などを味方に引き入れ、龍造寺氏と小城付近で対陣しました。この時、日在城の鶴田兵部大輔直の実弟(養子)因幡守勝・同越前守前、前の長子甚五郎(後の上総介賢)は、大友・有馬・波多氏との反目の関係から龍造寺に味方して、有馬軍の部将本田純綱を有馬・波多氏の軍に追われて一戦をまじえたほどでした。この合戦は結局、有馬・波多氏の敗北に終ったのですが、波多・鶴田両氏の仲はますます悪くなっていきました。
鶴田直の最期
永禄七年(1564)九月、波多氏の重臣山本青山城主青山采女正は、両鶴田氏の名声の高まるのを恐れて、後室とはかり、甘言をもって鶴田直を岸岳城に招き、途中伏兵に急襲させました。直はわずかの兵でよく防戦につとめましたが、重傷を負いようやく日在城に帰りついたものの、その傷がもとでついに亡くなりました。波多・青山のしわざに怒った鶴田前は、直の後を継いだ実弟因幡守勝に協力して岸岳城を包囲しましたが、なかなか落すことができず、後からまた攻めなおすことにして引きあげました。
この年十二月二十九日、歳末祝賀のため岸岳城に出仕していた日高甲斐守喜は、かねての手はずどおり下城の直前に城中に放火し、大混乱に陥れて岸岳城を奪取し、首尾よく父のあだを報じました。いちはやく危険を感じた後室たちは、混乱にまぎれて、背後の谷間伝いに逃げのび、姉むこに当る玉島の鬼ケ城草野中務大輔鎮永のもとへ身を寄せました。喜は鶴田前を上松浦党の盟主と仰ぎ、岸岳城にあって波多氏の所領をわがものにしました。
その後、鎮永のもとに身をひそめていた波多氏はひそかに佐賀の龍造寺を頼って岸岳城を奪い返そうとしましたが、日高氏もまた平戸の松浦隆信に助けを求めました。永禄十二年(1569)十二月、隆信の子鎮信は軍船に兵三〇〇を乗せてこれを援助しようとしましたが、これより早く龍造寺軍は岸岳奪還の援軍を送り、歳末酒宴中の岸岳に攻めこみました。さんざんに敗れた日高兄弟は命からがら壱岐にのがれたということです。
その後、日高兄弟は岸岳方から攻められるのを恐れて壱岐を平戸松浦氏に従属させることを条件にし、松浦隆信の弟豊後守信実に喜の娘をあわせてその保護を頼みました。これから後、壱岐は平戸松浦の支配に移ったのですが、地理的には佐賀県に近接していながら、壱岐が今日なお長崎県に所属しているのは、こうした歴史的因縁によるものです。
それから、波多氏はたびたび獅子ケ城を攻めましたが、守りが堅くて城を陥すことはできませんでした。しかし、その後波多氏の家臣の忠告で、同族相争う不利をさとった波多鎮(藤童丸)は鶴田氏に和議の書を送り、ようやく和睦することができたといいます。
獅子ケ城の落城
天正元年(1573)龍造寺隆信が上松浦に攻め入ると岸岳城の波多氏は戦うこともなく降参しましたが、獅子ケ城主の鶴田越前守前はなかなか屈せずに抵抗しました。それは弟の因幡守勝と草野鎮永との間の血判による起請文があったからだといわれます。龍造寺氏の草野攻めにあたって鶴田氏がこれに従わなかったのもそのためであり、これがまた龍造寺の鶴田攻めの原因だと思われます。
連日の激戦で両軍の死傷はふえるばかりであり、城も危く見えたので、日在城主鶴田因幡守勝は仲裁に立ち、自ら龍造寺軍営に行って交渉し、草野攻めの先陣をすることを条件に和を結びました。その後獅子ケ城の城中には重臣龍造寺河内守と馬渡主殿とが城番として置かれましたので、獅子ケ城の独立性はまったく失われてしまいました。
天正四年(1576)六月、獅子ケ城は、波多・伊万里・有田氏に攻められ、日在城の因幡守勝も鶴田方に協力して戦ったが、六月二十八日、越前守前は壮烈な戦死をとげたともいい(鶴田家系図)他書には元亀三年壬申年秋、獅子ケ城を長子上総介賢に譲り、別荘を浪瀬に建て、岩松斎と称して老を養ない、天正四年丙子年六月二十八日に死去したとも記されています。
前の子賢(山口荘山城主鶴田亀童丸の娘妙香の子)は父の死後龍造寺氏の配下となり、多久に移って多久家の家老となりました。鶴田の一族で多久に移ったものが非常に多かった、ということです。
日在城主鶴田氏の滅亡
天正五年(1577)波多三河守鎮は後妻として、龍造寺隆信の養女安子姫を迎え、嗣子に龍造寺政家の子弥三郎を迎えて、龍造寺と近親関係を結びますと、隆信は大河野因幡守勝に対して三河守の配下に属するよう要求しました。因幡守勝は前年波多・伊万里・有田連合軍と戦い、特に頼みにしていた兄越前守前を討たれ、養父(実兄)直を殺された恨みもあり、三河守が有馬から入って波多を継ぐときに反対した張本人でもあるのに、今さらその下位に立つことをいさぎよしとせず、隆信の要求を拒絶して、日在城にたてこもりました。
隆信はおこって、さっそく日在城攻略の評定を開きました。その時、武雄の後藤家信(隆信の三男)は、かつて養父貴明が苦境に陥ったとき、鶴田因幡守勝兄弟に助けられた恩義を思い、
「どうしてもお許しがなければ、家信は因幡守の城に入って共に切腹いたします。」
とまでいって必死になっていさめました。その結果、隆信の日在城討伐は中止になりましたが、因幡守兄弟はそのいきさつを聞き、情義に感じて日在城を明け渡し、武雄後藤家へ預けられました。
松浦大系図は、「これは天正五年(1577)の出来事で、勝の子孫は栄えて蓮池と多久にあり、高は後藤家信の家来となり、その孫の川原源太郎総は佐賀に来て仕えた」と記していますが、実際は、勝は田代了心・馬場甚介たちを従えて中通村(現在山内町)鳥海に移り、以来鶴田氏は後藤家(後鍋島)に仕え、後にはその老職となっています。現在「鶴田家文書」を所蔵する武雄市武雄の鶴田氏はその子孫です。
その後日在城には三河守の客将毛利肥後守がきて知行していますが、天正十七年(1589)波多三河守親の淀姫神社修築の棟札でわかるように、実権はずっと波多氏が握っていました。
同年駒鳴の熊野神社が修築されていますが、保存されている棟札の佐々木氏の出所がよくわかりません。ただ、一人、佐々木近江守は松浦要略記や松浦昔鑑に、波多氏の侍大将として記されている同名人名で、やはり波多氏の権力下にあったものと思われます。


