古唐津のふるさと

大川一帯、特に眉山山ろくは、よい陶土に恵まれ、昔から古唐津の産地として知られています。
肥前松浦鑑によると
「寺沢志摩守が朝鮮帰陣のおり、唐(韓)人を連れてきて焼物を造らせた。慶長年中に大川野田代村で八か年焼き、同年号に川原村へ移って茶碗・徳利を十三か年焼いていたが、後元和三年府招村椎峯山に移り、雑物焼きをして渡世した。」と記されています。
ほかにも椎峯焼物師の口上書、立川小松家系譜、肥前陶磁史など、大川町内の窯について書かれていますが、諸書の記載内容に食い違いがあります。およそ一致する点をまとめると次のとおりです。

古窯分布地図
① 田代(筒江神谷)窯跡
② 川原焼山上・中窯跡
③ 川原焼山下窯跡
④ 井手口梅坂窯跡
⑤ 川原神谷窯跡
⑥ 川原畑田窯跡
⑦ 井手口善徳窯跡
⑧ 立川西本谷窯跡
⑨ 川原佐次郎窯跡
⑩ 川原片草窯跡
⑪ 城野儀左衛門窯跡(烏帽子窯跡)
⑫ 東田代向拝川上窯跡
⑬ 東田代牟田良窯跡
⑭ 一若窯跡
開窯年判明の分から時代順(ルソン窯一若を除く)

田代村(筒江神谷窯)の開窯は、慶長元年(1596)ごろで、寺沢志摩守が朝鮮帰陣のとき連れてきた朝鮮人の陶工、日本名の弥作、彦右衛門、又七(この子孫が中里太郎右衛門)などが、慶長八年(1603)まで、八年間焼きました。一時、落窯になっています。
川原焼山上・中・下窯は、先の朝鮮人や小松氏のような戦国武士の帰農者などが、慶長九年(1604)から元和二年(1616)まで十三か年間、茶碗や徳利を焼いて、その後椎峯に移ったということです。
しかし、川原の池田順一郎氏所蔵の出土品によれば焼山上窯では、茶碗のほか水指・大鉢・大形の壺・三脚みつあし高台、絵皿など、中窯では黒天目・奥高麗、下窯では多くの絵皿や向付・片口・壺なども焼かれたようです。
なお、岐阜県土岐市久尻「元屋敷窯」に関する古文書によれば、この窯を築いた加藤景延は、唐津浪人森善右衛門の案内で唐津に行き技法を学び、元屋敷に唐津式の登り窯を築いて織部焼(天年間、茶道で有名な古田織部が尾張国瀬戸村で焼かせ)を始めたということですが、景延が学んだ唐津窯は、たぶん甕屋(神谷)の谷、焼山、一若窯などがある川原村であろうといわれています。
「元屋敷窯と甕屋の谷窯グループの作品を比較すると、意匠的、技術的に共通した点が非常に多い。」と、唐津御茶碗窯の中里太郎右衛門氏がいっておられます。注1
「一楽、(秀吉が楽家第で焼かせたという)二萩(山口県萩焼)、三、唐津」と、茶陶の中の三傑の一つといわれる唐津焼の名品が、ここ川原村で焼かれていたに違いありませんし、これが遠く美濃の焼物に影響し、茶陶の発展に貢献したことが伺われます。
立川西本谷窯は、享保年中(1716~1735)小松氏が椎峯から移ってきて、明和五年(1768)まで、五十年間ばかり焼いたそうです。ここでは後の方で磁器が焼かれたらしく、磁器片が少なからず発見されています。
井手口善徳窯も享保年中、椎峯から移ってきた陶工によって開窯された、とありますが、窯跡の上方、中島輝夫氏所有の山林中に、「元禄十五年(1702)三月二十五日法名釋道清」と刻まれた石塔のほかにも数基の古い墓があって、「鮮人墓」と呼ばれていますから、善徳窯は、朝鮮人によって元禄年間から焼かれていたものと思われます。なお、ここからも、窯跡の上層部から、磁器ににた破片が数多く発見されます。
別伝によれば、善徳焼は、松尾伝右衛門という人が経営し、文政年間(1818~1829)から明治維新前二十年ごろまで、約四十年にわたって、湯呑茶碗類を作っていたということです。善徳窯開窯の元禄年間から文化年間まで、百年あまりのようすがわかりませんが、おそらくその間には、なんども築きなおしたり、代変りしたりしたかも知れません。松尾氏は代々大川野の総百姓で、石高二百三十石、領主から帯刀御免、乗馬九頭、奉公人四十人、窯仕事人夫三十人、計七十人を召し使い、酒造業を営み、大規模な農業もしていた、といいますから、大地主の事業であったようです。
井手口梅坂窯は、眉山中腹にあって、開窯は、焼山窯とほぼ同期の慶長年間(1596~1610)ということですが、いつごろまで続いたかわかりません。
川原神谷窯は、梅坂窯より後で、元和年間(1615~1623)の開窯と推定されます。今は開墾されて、まったくわからなくなってしまいましたが、五、六年前までは物原の盗掘がしきりに行われ、破片もずいぶんありましたから、相当な期間焼かれていたものと思われます。
川原畑田窯は、相当古いというだけで、築窯の時期や規模もまったく不明です。ずっと以前から水田化され、現在ではその位置を探すことも不可能です。
川原佐次郎窯は、享保二十年(1735)開窯で、かなりの優品が焼かれたらしく、町内には佐次郎焼の所有者がなん人もおられます。窯跡は破壊され、全くわかりません。
川原片草窯も開窯は享保二十年(1735)ごろで、途中中絶したとも思われますが、大正の始めごろ焼かれたらしい窯跡が残っています。ここは「かめ」専門に焼かれたらしく、その破片がたくさん埋っています。肥前陶磁史考には、後年磁器を焼いたらしいとあります。
田代牟形窯、肥前松浦鑑に、「牟形の土は高麗の土ににていて陶土としてよい、」ということの次に、「初めて大川野田代村で焼物を焼かせた、」とあることから、ある書には、田代窯は東田代の牟形窯としたのがありますが、これは玄海町の牟形の誤りのようです。
しかし、東田代の「牟田良」には、やはり窯が築かれていたということです。筒江の禅門滝(大滝)に下る途中ということですが、今では窯跡を知っている人はほとんどなく、なかなか探すことができません。

一若のオランダ墓

肥前陶磁史考に、川原、神谷窯の西方、たんぼをへだてた山すその雑木林を三、四〇m上った所に石碑の残欠があり、これをオランダ墓という。今から四百年(昭和十一年から)以前にオランダ人二人がこの一若に来て、一種の陶器を焼いた。それは、まったくルソン系統の物で従来の唐津焼とはその種類を異にしたものといわれる、このオランダ人はどこから来たのか、唐津からか、平戸からか、それとも長崎からきたのか、まったく不明である。
と、果樹園でけずられた山の断面に露出している焼物の残欠は、ほとんど薄手の壺・徳利様のものです。たたき技法による壺の口頸部近くには、縄文土器の紋様のような飾りがつけられ、薄い施釉で堅く、ほとんど「かめ」ににた焼物です。
川原の人は何人でも、昭和の初めころまで、自然石の墓があったのを確かに見たといっておられますが、今は探し出すことができません。はたしてオランダ人の墓であったか、また、四百年以前からルソン系の焼物が焼かれていたかも、疑問です。


注1、肥前陶磁史考には
 同天正十三年(1585年)八月十一日、筑後守景光卒(七十三才)せしが、長子四郎右工門景延又父に劣らぬ名陶家であつた。或時肥前唐津の浪士森善右工門なる者久尻へ来りし折、此地窯式の拙なるを難せしかば、彼は大いに覺る所あり、乞ひて善右衛門に伴はれて肥前に下り、親しく唐津窯の構造と其焚方及釉薬法等を學んで久尻に歸り、之より景延の陶技大いに進み、當時空前の巧者と稱せらるゝに至つた。瀬戸、飽津の陶家等此唐津窯の良好なるを聴き傅へ、往きて一見を乞へども景延秘して赦さなかつたのである。
と有りますので景延が学んだ窯は、時代が少し異なるのでそれ以前に存在していた岸岳周辺の窯と考えられます。

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