寺澤廣高は大永五年尾張に生れ、織田信長に從ひ、後豊臣秀吉に仕へて、次第に立身し、肥前唐澤の城主となる、征韓の役に功あり更に筑前怡土郡の内二万石を加へらる、關原の役家康に從ひて濃尾の間に戰ひければ、其賞として更に肥後天草郡を加增せられ、所領十二万石に達せり、常に茶器を愛し、其唐津城主となるや、大に同地の窯業を興し、唐津焼の今日あるは、志摩守の力興つて多きに居るといふ、寬永十年四月十一日卒す、年七十一法名を休甫宗可といふ。
大正名器鑑にて
記事寺澤廣高は大永五年尾張に生れ、織田信長に從ひ、後豊臣秀吉に仕へて、次第に立身し、肥前唐澤の城主となる、征韓の役に功あり更に筑前怡土郡の内二万石を加へらる、關原の役家康に從ひて濃尾の間に戰ひければ、其賞として更に肥後天草郡を加增せられ、所領十二万石に達せり、常に茶器を愛し、其唐津城主となるや、大に同地の窯業を興し、唐津焼の今日あるは、志摩守の力興つて多きに居るといふ、寬永十年四月十一日卒す、年七十一法名を休甫宗可といふ。
大正名器鑑にて