検索
Close this search box.
Picture of 鶴田 亀童丸
鶴田 亀童丸

伊萬里灣
 西松浦郡の伊萬里沿岸は、九州西北部の一端にて、古代大陸民族の渡せし、土地なることは、其地理的にも考察さるゝところである今遺跡として東山代村の日尾崎と、西山代村の波瀬の小島には、高句麗式の横穴古墳があり、そして日尾崎よりは、石器時代の鏃や、石鉈刀の如き破片が發見されてゐる。

紀の飯麿
 此灣内の奥地なる伊萬里港は、そのかみ神功皇后出兵の折、此處に御船を寄せ給ひしとの口碑あるを考ふれば、往時は内深き良港なりしと覚しく、其後五百四十年を経て聖武天皇の天平十二年九月三日(740年)藤原廣嗣筑紫に叛するや、武内宿彌十一代の後裔古麿(正三位大納言)の長子紀の飯麿(従三位参議)は、大野東人と共に救命を蒙りて西國に下り、十一月五日廣嗣の誅伐を奏申するに至った。此時飯麿は遠祖彦太忍信命の武勇を敬慕し、此地岩栗に神壇を築きて祀りしより、飯麿の名に因みて爾來此處を伊萬里と解するに至りしといはれてゐる。
 永長元年(1097年)源太夫判官源久、今福に梶谷城を築きて根擄を定め、伊萬里を擁してこの地方に松浦黨の勢力を扶植するや、治承年間(1177-1181年)久の孫公文次郎眞高伊萬里を領し、其子津吉十郎重平之を継ぎしも、其後彼が再従兄弟なる峯源三郎上此地に封ぜられ幸平の城主(此處を今峯の坂と稱するは峯氏の居城下なりし故か)となった。

伊萬里源三郎
 上は後年此處の地名を執りて伊萬里を氏となし、伊萬里源三郎と稱した。然るに上男子なきを以て、従兄弟大河野彌二郎茂を婿養子となし一男を繋げた、之が伊萬里源六留である。

北岡築城
 寛元年間(1243-1247年)留は伊萬里の地頭職となり、斯くて北岡山に築城した(今の城山公園)。 其子源二郎勝入道如性は文永十一年(1274年)同族山代彌三郎階同又三郎父子、及び石志次郎兼(松浦直の舎弟増の裔也)等と共に、蒙古勢を壹岐に防戦し、十月九日の奮闘にて山代彌三郎、石志郎は戦死するに至つた。

前に戻る
Facebook
Twitter
Email