

日在城危しの知らせを受けて、岸岳城主波多下総守親興は直ちに援軍を送り、地元の馬場・徳末・山口以下下松浦党の面々も急援にかけつけました。そして盛家・三郎四郎父子の軍を取り囲み、一兵も逃すなとばかりときの声をあげて攻めたてました。もともと地理不案内の龍造寺軍は、勝手知った波多・鶴田・その他の地元軍から、あるいは松の木陰からさんざんに射られ、あるいは岩穴の間から切って出られ、縦横十字にけたてられて、さんざんに打ち破られ四方八方へ敗走しました。盛家は歯がみしながら部手を下知し、父子とも先頭に立って戦っているところを、鶴田氏の家臣峯刑部の兵三〇〇ばかりに包囲されました。今はこれまでと覚悟をきめた盛家は、その子三郎四郎とともに敵中にかっ入ってたちまち討ち取られてしまいました。成富刑部大輔も盛家に続いて討死し、そのほか龍造寺軍に協力した相知・広瀬・中島以下ことごとく討たれ、生き残った兵はかなわぬとばかり厳木方面へ敗走しました。しかし、立川の合戦には負けたけれども、獅子ケ城と梶峯城はなんとしても手に入れたいと両城の囲みを堅め年を越しました。なお、戦誌には、次のようなことが書き加えられています。
「龍造寺伯耆守盛家人道日勇討死の旧跡、上松浦大河野の内立川に大松あり、これをすなわち盛家松という。百五十年を過ぎて元禄のころ、土井防州、唐津領地の時、用木にこれを切られ今においては無し。日勇実は高木右京大夫兼兼の子、龍造寺豊前守胤家の養子なり。」と。
鶴田家伝によれば、鶴田勢が立川合戦には、優勢な龍造寺軍に向って勇敢に抵抗し、伏兵によって、はさみ打ちにし大勝を得たとあります。田中芳太の大川郷土誌にも立川合戦のことが書かれていますが、鶴田軍に攻めたてられて山にのがれた盛家が、烏帽子をぬぎすて、再び烏帽子はかぶらないと誓って出撃したところからこの山を烏帽子嶽というとか、太刀洗川や隠れ、伏所などの地名もこの合戦の名残りと言い伝えられると書いてあります。また盛家を討ち取ったのは前書と違って川原勘右衛門とあり、鶴田家伝では、鶴田の家臣此美新五兵衛になっています。
翌年、天文十四年正月七日、龍造寺軍は鶴田越前守前の獅子ケ城をいったん攻め落しましたが、五日後の十二日、勢を盛りかえした鶴田勢が、城を奪い回しようと逆襲しました。一度は退けられたが、その夜城の後方から険しいがけをよじのぼって夜襲し、獅子ケ城を取り返し、もとのように入れ換わりました。
一方、多久の梶峰城攻撃の龍造寺軍は、越年して悪戦苦闘の結果、一月十八日に落城させましたが、搦手に向った龍造寺軍が惨敗し、長島表に向った龍造寺軍も有馬勢に敗れたので、龍造寺軍はかろうじて佐賀に退却しました。
昭和九年発行の「貽慶録」には、立川の会戦で惨敗した龍造寺軍が、他の軍勢を合わせ集中して立川を攻め、日在城を陥落させたように書かれていますが、出典が明らかでなく、当時の情勢からして考えられないことだと思います。
この戦いは、龍造寺の勢力が盛んになるのをねたんで、肥前の諸豪が龍造寺を失墜させようとするためのたくらみであったから、このあと、龍造寺一門は淀姫社と祇園原(神埼)でほとんど惨殺され、龍造寺剛忠は筑後にのがれています。後に主君小式氏を始め諸豪の謀略であったことを知り、佐賀に返って報復戦をいどみ頼周父子を討ちましたが、天文十五年(1546)中途で倒れました。九十三才だったそうです。剛忠の死後、母とともに仏門に入っていた剛忠の首孫円月(後の隆信)が水ケ江龍造寺家を継ぐことになります。


