
松浦源太夫判官久の第二子持(波多源二郎)は波多郷一帯の分譲を受け、波多氏を称して息子岳(岸岳)城を築き、持の第一子親(波多源太)は父の後を受けて岸岳に拠りましたが、第二子来は鶴田(相知町佐里)にいて、鶴田太郎と称し、鶴田氏の始祖となりました。来の子起(鶴田次郎)は、大川野の日在城主大河野知(大河野三郎)の娘をめとって、これと親族関係を結び、その子馴(鶴田五郎)はさきに記したように、源披を訴訟して佐里(相知)を守り、その前年、寛元三年(1245)すでに鎌倉幕府から正式に佐里・泊・牛牧(壱岐)の所領を安堵(領地承認)させられています。馴は後、元寇のさい出撃し活躍していますが、防塁築造の諸氏のなかにも、その名が見えます。
鶴田氏は馴以後、文書にも出てきませんし、その勢力はあまり振わなかったようです。明応三年(1494)正月、小弐政資が松浦へ兵を進めたとき、波多・鶴田・相知・有浦氏は、一戦にも及ばずに降伏していますが、明応六年(1497)には大内義隆に従って政資を攻めこれを多久で割腹させています。このころはもちろんのこと室町時代になってからの大河野氏の活躍はまったくみられませんが、ただひとつ前記応永二十八年(1421)松浦党一揆契諾書の中に大河野遠江守繁の名があります。しかしこれも真偽のほどが疑われている文書ですから信頼されません。もし署名の繁が当時生存していたとしても世伝にあるとおり、以後大河野氏は断絶したものと思われます。したがって、鶴田氏が大河野氏の跡をついで勢力をうるのは「河上神社再興の棟札」文明七年(1475)の少し前ごろではないかと思われます。
応永年間ごろから勢力をのばしはじめた岸岳城の波多氏が、文明四年(1472)壱岐を奪い取って、上松浦党の党首的存在となり、党一揆の体制がくずれて武力抗争をくりかえすようになったころ、すなわち天文ころになって、鶴田因幡守伝の長子鶴田兵部大輔直(後に因幡守)が日在城に移ったのではないかと思います。
これよりさき、大河野遊の弟峯披が構の峯館(現在矢房様が名残りをとどめています)から浪瀬(厳木町)に移って、文治年間(1185~1189)に獅子ケ城を築きましたが、その子持(峯弥五郎)の代になってから平戸へ移り、平戸松浦の祖となったので、その後約350年あまりは廃城になりました。
これは別の話ですが、持が平戸に移った後も披はこの地を領有しの地で没したらしく、その墓が現存していて、土地の人は「ヒラッコサマ」(披公様)と呼び祭っています。
やがて元亀・天正(1570~1591)のころになりますと、肥前も戦国のあらしに吹きまくられ、群雄割拠して争いを繰り返す時代となりますが、なかでも佐賀の龍造寺氏の進出はめざましく、上松浦もいつ侵入されるかわからない情勢になってきましたので、岸岳城主波多氏は日在城主鶴田氏と図り、上松浦東方の堅めとして当時豪男の聞こえが高かった因幡守直の弟、鶴田兵庫介前(後で越前守)をやって、廃城の獅子ケ城を復興させ、ここに立てこもらせて、龍造寺氏に備えました。


