
松浦家世伝によれば、大河野遊の子知の代で大河野氏は絶えたことになっています。ところが松浦党大系図抄では「知の子馴」を鶴田氏の祖と注してあり、松浦家世伝には「上松浦党祖波多持の二男来が、鶴田(相知町)という地を領したので鶴田を氏とした。その子が起、孫が鶴田五郎馴……」とあります。厳木町史には小城鶴田家蔵の家系図が記されていますが、それによると馴は鶴田起を父とし、大河野知の娘を母として生れ、知のあとを継いで三代目の日在城主となっています。吾妻鏡に寛元三年(1245~鎌倉時代中期)「松浦執行源披が鶴田五郎馴の領地である松浦荘の西郷佐里を奪おうとしたので、押しこめられた」とあるところを見ると、馴の存在は年代的には合いますが、これが日在城の三代とするのには問題があります。それから九三年後の建武五年(南朝延元三年 1338)石垣山の合戦に出ている大河野氏、142年後至徳四年(南朝元中四年 1387)松浦党血判の大河野殿豊後守有、176年後の応永二十八年(1421)松浦党一揆契諾書に署名押印の大河野遠江守繁などがいることです。また寛元三年の訴訟事までは鶴田氏は佐里(相知町)の領主であり、下松浦の党主の源披(御厨)の勢力に押されていて、大河野へ進出できる情勢ではないように思われます。永和二年(1376)大川野村の訴訟のことで九州探題今川了俊の施行状が出ていますが、その十五年後にも、伊万里貞と大川野有が争った向村の沙汰状が出されています。
立会・慈性連署田地注文
大河野内向村正跡田地等事
地頭やしき、つらた八反道連かけのき三反、かわち丸なつら三反、壱反きのした、壱反はたけ、しまつほ二丈、又ひらた一反はん、まえだ二反はん、一反三郎二郎、七つへ源三郎、七つへろくろや、まとは三反、三反たうくん、壱反てらの、つるまき一反、ようさくはたけ一反やなせのうしろ、そしふん、
清二郎
かわつら方
たにつら方
立 金(花押)
慈 性(花押)
右如此、自余(そのほか)追面、可有其沙汰状、如件
明徳二年(1391)十二月十五日


