秦 久茂
人皇三十八代天智天皇の朝に於いて秦久茂都より下りて外寇に對する警備の任に就きしより、子孫代々上松浦を領有すること四百餘年であった。而して此處の鬼子嶽(今の北波多村岸岳)山麓に舘を設けて支配せしより、此地方をさ稱せしが、後世に至つて波多の字に改められたのである。
一條天皇の正暦元年(990年)、清和源氏の嫡流源頼光は、肥前の國司に任せられて上松浦に下向した。今此地加部島の田島神社(國幣中社にて田心姫尊、湍津姫尊、 市杵島姫尊を祀る)
奉獻の石鳥居は、當時頼光の寄進と稱せらる。其時從ひりし四天王の一人渡邊源五別當綱こそ肥前松浦源氏の開祖である。
源頼光と綱
彼は嵯峨源氏河原左大臣融の孫箕田源次別當充の男にて、母は多田満仲の女なれば綱は頼光の甥である。松浦源氏の本系左の如し。
(松浦源氏本系圖参照)
久 久寛を討つ
斯くて秦氏の後代久寛に至つ勢威大いに振ふと共に、遂には朝に反するこ屢々なるより、當時京師にありし綱の男渡邊源別當久は、長元四年(1032年)敕命を奉じ上松浦千々賀に着陣し、攻めて久寛を破り追つて松浦川邊に於いて之を討取たのである。(此地方を鬼塚村稱するは、當時鬼の如く恐れられし久寛の墳墓ありしにあらざるか)
眉山を討平ぐ
然るに長久二年(1041年)秦の残業は、又眉山(松浦、大川、若木三村の境)の隙に據りて周圍の村民を脅すこと頻りなるより、久は三男竈江三郎糺と共に攻めて之を鎮定した。(今千々賀の甘木谷にある御久さんの石といへるは此久なるべし)
授と泰
久の舎弟奈古屋兵衛尉授は、奈古屋の館に居住して奈古屋公と稱せしが、其子泰に至つて瀧口太夫とせるは、一旦京師に上って御所警衛の任にありしと覺しく、後西下して筒井(今の波多津村)の上戸城に居住(筒井源太夫さ稱せしにあらざるか)せしが、後三條天皇の延久元年十二月二十九日(1069年)彼は下松浦の今福に上陸して此地を本據と定めたのである。(今福上陸は其子久の説あるも、久は此時僅に六歳であつた)
梶谷城を築く
堀河天皇の永長元年(1096年)泰の長子源太夫判官久(此時三十三才也)は今に梶谷の城を築き上下松浦の莊二千二百三十町を併有し、爰に松浦源氏の基礎を固めしものにて、子孫四十餘黨に繁昌せしさ稱せらる。(蓋し松浦黨とは共氏族のみにあらざる可し)斯くて彼は久安四年九月十五日(1148年)八十五才を以て卒し、此地の宛陵寺に葬られてゐる。
波多持
之より松浦氏を宗家の姓と定めて御厨公直之を継ぎ、三男源次郎持が上松浦の波多に封せられたのである。今より七百五十年前持は鬼子嶽に築城して之に居りしが、此城一名古志峯城と稱し、此地方の要害として威力四隣をするに至り。而して持は地名波多を氏となし波多源次太夫と改めたのである。