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Picture of 鶴田 亀童丸
鶴田 亀童丸

 

古城跡と山口
下手附の霊域
下手附とよぶ字に、納骨堂が田園の中に建って、その敷地に五輪塔や六地蔵、六観音石瞳がたてられて霊域となっています。古老の語るところでは、みだりにここに入ればたたりがあるというので、子供のころは恐れて近づけなかったらしい。六観音は、ここから北方三百米ばかりの道路わきに建っていたものを、耕地整理のため移されました。
天正八年庚辰
逆修梅林妙香
三月七日
拓本にとったら、はっきりと銘文が出てきました。
天正八年(一五八〇)の紀年銘は決して古いものではありません。松浦町中野原の天文十一年(一五四二)や波多津町筒井の弘治三年(一五五七)、大川野の永禄元年(一五五八) など、もっと古いのです。しかし、紀年銘と造立者銘があきらかな石塔は外にありません。あっても施主敬白とか、逆修善根主常秀信士位など、生前あらかじめ死後の幸を祈って仏事を営み戒位を得て造塔したものですが、なかなか素性がわかりません。
 山口の天正六観音石幢は妙香という女性が造立したもので、戦国時代のことだから余ほど由緒のある人物に違いないと思っていました。土地の人々はここに建っている五輪塔は亀童丸の墓だといいます。系図によると、荘山城主が鶴田亀童丸で、妙香という女性はその娘であり、厳木町浪瀬にそびえる獅子城主鶴田越前守前の夫人で、賢の母であることがわかりました。
古城跡
 中手附の字に「じょうののつじ」と呼ばれている城跡があって、頂上付近に空濠の跡と伝えられている凹地が残り、ながめのきく標高一六〇米の山があります。その山麓には「館中原」「館」少しはなれた山ぎわには「屋敷」などの私称地名があって、中世の集落の所在を暗示しております。
 戦国の世、要害の獅子城に拠って勇名をとどろかせた鶴田越前守前は元亀三年(一五七二)賢に城を譲り、天正四年(一五七六)に世を去っております。

山口区長保存書類の中に、文政弐年肥前国松浦郡山口村明細帳があります。 明細帳の最後のところに、
一、山口村字古城と申所往古岸岳御城之波多三河守様家候の鶴田善助と申人居城之由二而家々唱来申候
とあります。
 古城のことを、村人は「じょうののつじ」というが、城野の辻か、荘野の辻か、鶴田系図にある荘山城のことか、いずれにしても山口村の城はここだけであります。
 妙香の父、荘山城主である鶴田亀童丸が明細帳に記されている善助という者と同一人物であるのか、天正六観音も明細帳もこれ以上のことは語ってくれません。案内の鶴田満氏や宮本岩津久氏が、数年前、鶴田越前守前を祭る鶴田神社の氏子達が山口を訪問、鶴田氏ゆかりの土地を巡検されたことなど聞きながら天正の昔をしのびました。

じょうののつじ

大川町誌より
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