
中手附の字に「じょうののつじ」と呼ばれている城跡があって、頂上付近に空濠の跡と伝えられている凹地が残り、ながめのきく標高一六〇米の山があります。その山麓には「館中原」「館」少しはなれた山ぎわには「屋敷」などの私称地名があって、中世の集落の所在を暗示しております。
戦国の世、要害の獅子城に拠って勇名をとどろかせた鶴田越前守前は元亀三年(一五七二)賢に城を譲り、天正四年(一五七六)に世を去っております。
山口区長保存書類の中に、文政弐年肥前国松浦郡山口村明細帳があります。 明細帳の最後のところに、
一、山口村字古城と申所往古岸岳御城之波多三河守様家候の鶴田善助と申人居城之由二而家々唱来申候
とあります。
古城のことを、村人は「じょうののつじ」というが、城野の辻か、荘野の辻か、鶴田系図にある荘山城のことか、いずれにしても山口村の城はここだけであります。
妙香の父、荘山城主である鶴田亀童丸が明細帳に記されている善助という者と同一人物であるのか、天正六観音も明細帳もこれ以上のことは語ってくれません。案内の鶴田満氏や宮本岩津久氏が、数年前、鶴田越前守前を祭る鶴田神社の氏子達が山口を訪問、鶴田氏ゆかりの土地を巡検されたことなど聞きながら天正の昔をしのびました。