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鵜殿石仏群

鵜殿石仏群
Picture of 鶴田 亀童丸
鶴田 亀童丸

佐賀県史跡 鵜殿石仏群
鵜殿石仏群については、次のような伝承があります。
大同元年(806)、空海(弘法大師)が唐(当時の中国)より仏教修行をし、遣唐使と共に帰国した際にこの地に立ち寄り、釈迦如来・阿弥陀如来・観世音菩薩の三体の釈迦三尊を岩肌に刻んだのが鵜殿石仏群の始まりで、その後、天長年中(824~833)に唐から帰朝した常暁により、鵜殿山平等寺も建立されたと、文禄3年(1594)に書かれた『鵜殿山平等寺略縁起』に記されています。
しかしながら、現存する60数体の石仏の中には、空海が生存していた平安時代の石仏は一体もなく、最古のものは14世紀の南北朝時代の石仏で、ここには、南北朝時代から江戸時代にかけて綿々と彫られた石仏が現在残っています。
この鵜殿石仏群は、14世紀頃より山岳密教の修行場としてひらかれ、江戸時代にいたるまで栄えると共に、中世には平等寺が、近世には、麓に明王院という真言宗系の寺院も建立されました。
鵜殿石仏群を代表するのが、14世紀に二天窟に掘り込まれた「持国天」(東方を守護する仏)と多聞天(北方を守護する仏)、そしてこの二天像に守られている鵜殿石仏群の本尊である「十一面観音」です。
また、南面壁には、15~16世紀頃に彫られた「薬師如来像」や「不動明王像」、さらに不動明王の従者で善の心を表す「矜羯羅童子像」と、蛇を手に持ち悪の心を表す「制多迦童子像」などがあり、さらに、仏の世界と現世を結ぶ通り道である「胎内くぐり (胎蔵界)」や東面壁に彫られた「千体仏」など、各時代性を反映した多彩な仏像が彫られています。
この鵜殿石仏群が位置する岩山は、かつては鵜殿山ともいわれ、古来より多くの仏様が存在する神秘的な山だと考えられていました。 つまり、「人間界」を離れ、仏が存在する鵜殿山で仏教修行すれば、より修行のステータスが向上できるといった信仰のもと、鵜殿山の仏教文化は栄えました。
こうした鵜殿山で山岳仏教が興隆した背景には、近接する丘陵地に館を構え、14世紀の南北朝時代に相知一帯に勢力を振るった松浦党の相知一族の保護が想定され、その後、16世紀になると、上松浦党の盟主である波多氏や配下の久我氏の厚い崇拝や保護があったことが歴史記録に残っています。
平成25年9月
唐津市教育委員会

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