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大川野遊

Picture of 鶴田 亀童丸
鶴田 亀童丸

 元松浦黨の一家大川野遊の領地(千五百八十石)にて川西の日在城に居住し、別に含弟峰五郎彼が(平戸松浦及伊万里氏の祖)川西なる峰の舘に住居した。
 而して遊の子孫鶴田、田代、河原を氏となして此地方に蟠居し、其外波多氏の旗下には南源三郎保道(大川野南の舘四百石)原善四郎源佐(大川野三百石)峰丹後守但(川西峰の舘三百石)峰五郎八通(下鄉百五十石)田代日向守林(龜井の館三百石)赤木治部太夫彥秀(川原三百石)鶴田龜壽丸(山口)等ありしも、就中日在城主鶴田因幡守勝(五百石)及舎弟河原の邑主河原之允高(二百石)最勇名があつた。 系圖左の如くである。
(鶴田河原系圖参照)
肥前陶磁史考より

平戸松浦氏
 平戸松浦氏は、又唐津の波多氏、有田の有田氏、伊萬里の伊萬里氏等と同じ松浦氏の分系である。源太夫判官久の孫披、始め上松浦川西の峰邑に在りて峰五郎と稱せしが、治承元年(1177年)巖谷(東松浦郡嚴木村)に轉じ獅子ヶ城を築きて居住した。而して後年に及び父直の分譲地下松浦なる、御厨莊田若干を受けて田平の城主となり、そして獅子ヶ城は彼の兄大川野遊より出でし、鶴田氏の居城となったのである。
而して後代に至り御厨、鷹島、平戸、實龜、紐差大島、伊萬里、福島、楠泊、屋武田 江迎、小値賀及び黒島、五島の數部又東島を分領し、そして御厨莊の地頭となった。
 披の子源藤次持、其子源三郎繫は、共に平戸を姓とせしが、又五郎湛に至つて又峰姓に復し其子源五郎苔より以後代々松浦を姓としたのである。
而して當時四十餘人と稱せられし松浦黨の中獨り此平戸松浦氏のみが繁栄して今に残つてゐる。平戸松浦系圖左の如くである。(平戸松浦系圖参照)

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